人は議論する生き物である。答弁、論破、答申、稟議、申請、申告、上申、命令、と議論に関する熟語は多数あり、それが即ち人間が議論する生き物である証拠である。
「朝令暮改」という言葉をコロナのZOOM会議の場で医師会長が発した。このコロナが始まった時は「朝令暮改」であったと。つまり、朝出した命令が夕刻には変わっていることの連続であったと。このコロナは未だ未知な部分が多く、感染対策も未だにこれでいいのかとスタッフと議論する日々である。
とにかく人間は発した言葉に言霊が乗り、相手と議論をする。議論なら平等であるが、反論できなかった時、理不尽さや不快感が発生した時、たちまち「ハラスメント感」に変わるので注意を要するが、婉曲や忖度といったものを求められることもあるから、議論は難しい。
昨年末に人気のあったドラマ「Silent」。手話がテーマのドラマで、令和版「星の金貨」とも言われていたが、私には令和版「君の手がささやいている」だった。耳の聞こえない人はかわいそうだとか、不幸だとか。ろう者と健常者とか。上から目線とか。そんな単純な展開のドラマではなかった。耳の聞こえない人にも生まれつきの人もいれば、中途からの人もいる。その違いで声が出るとか出ないとか。出したくないとか、思い出したくないとか。恋愛するのに不幸を背負わせるとか。確かに耳が聞こえるかどうかは明らかに差が分かり、人生が変わるので、大きな問題となろう。ただ個人個人は同じように喜怒哀楽を感じ、無いものは無いとして、同じ境遇の者同士で過ごしているうちは苦労を分かち合って、分かりあえて不幸ではない。また弱点を持っているからこそ謙虚で有能で尊敬できる人もいる。ただ、違う境遇の人と接点を持った瞬間に摩擦が生じ、弱者ととらえられた方は不幸感が出てしまう。でもそれはこの人間社会においては誰しも同じである。大なり小なり利点欠点、みな境遇は違う。それでも気が合う者同士は自由に議論し、忖度し、バランスを保つ。不幸なのは分かり合えない時、分かろうとしない時である。その伝える道具、手段が聾唖者は手話であるだけである。
では話せるものは口か文章か、いずれにしても人間は発した言葉には心が乗るわけで、その心が通じれば喜びを感じ、通じなければ悲しみを感じる。どんな言葉にしろ、態度にしろ、相手に届く心が大事なわけであるから、常々心を磨く必要がある。心が変われば結果は変わり、全ての人が幸せになれるはずなので。
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