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長谷先生への追悼

執筆者の写真: Shinichi ShimaderaShinichi Shimadera

更新日:2022年9月24日

今回は私の恩師、長谷貴將先生への追悼の回としたいと思います。奇しくも安倍元総理が暗殺され、志半ばで亡くなる無念さがオーバラップしました。


長谷先生

前略 大変ご無沙汰しています。「前略」で始める文章は、先生に最初に習った手紙文の基本だったと思います。前略は草々で結ぶ、拝啓は敬具で結ぶ、と当時は本当に丁寧に一挙手一投足を教えていただきました。「お前は絵が下手だ」「発言の時にマスクを触るな」「10年経ったら名を残せ」「医療は常識的、研究は非常識的に」「医療行為は左足前」「手洗いの時に手術の全手順をイメージせよ」「縫合は回外で溜めたエネルギーをインパクトの瞬間に回内開放する」「糸結びはその人の履歴者である」など、ほぼ先生と私しか分からない語録を沢山教えて頂きました。その御蔭で今の私があり、クリニックを開き、ここに通う患者さんに高度な医療を提供できているつもりではいますが、先生の目から見ればまだまだなのでしょうね。

私は今、先生が命を落とされた時の歳になりました。先生と私は15年差がありますので、もうあれから15年経つのですね。私はその当時京都府立医科大学にいましたので、ことの詳細はわかりませんが、ネットで「長谷先生 福知山脱線事故」と引くといっぱい記事が出てきます。現場での先生の勇姿ぶりは想像に難くないです。ただ一体その後何があったのですか?全てが伝聞情報ですので、本当のことはやはり先生の口から聞きたかったというのが本音ですが、それももう叶わない話です。ただあの当時は先生と私は少し溝が生じていて、むしろ疎遠な時でしたから、やはり難しかったのかもしれませんが、結果的に先生の心、命を救うことが出来なかったのは一生の不覚です。

私が研修医の時、先生が持病のメニエールで入院されていた時に病室へ呼ばれ、「俺のロッカーの中のかばんを取ってきてくれ」と命令されたことや、実験室へ度々呼ばれ、1時間毎の採血を夜中までさせられたことなど、舎弟のように色んなお手伝いをさせて頂いたことは信頼の証として私は密かに嬉しかったです。あの時から一緒に食事に行っては何時間も医学のことから宇宙のことまで語って頂き、今の私の知識の源となっていることは間違いないです。

ポリクリの時に先生の綺麗な手術を見て、私は小児外科の道を目指しました。進路について先生を訪ねた時に、即刻東京での小児外科研修を紹介して下さったのも先生でした。研修医を終えたらすぐに3年間の小児外科研修に行けるように配慮下さり、無事東京研修から帰って来ました。ここまでは順調だったのですが、帰ってきた私に先生は何故かそっけない対応で、もはや小児外科にはノータッチという印象で、私は困惑する日々でした。私が居ない3年間に滋賀医大の外科の教授選考があり、教授の代が変わり、小児外科の方向性がすっかり変わって、医局全体が小児外科に及び腰の印象でした。「東京から帰ってくる嶋寺に全て任せよう」そんな声が東京研修の時から聞こえていたのですが、卒後10年未満の若僧には重圧でしかなかったです。そのこともあり、結局私は自分の前途の為に京都府立医大へ転局することにしたのでした。自分の学び舎、恩師、仲間を全て捨てて、私は裸一貫で京都に転がり込んだわけですが、小児外科医としてはその選択が正しかったのだと今では自分には言い聞かせています。先生の訃報を除いては。

京都府立では大学院へ進み、研修医の時に先生から学んだ研究手法を活かして研究したことが実を結び、博士論文が世に出版され、無事医学博士となった私は、その時はじめて先生が仰った「名を残す」の意味を知りました。論文には共同著者という人がいて、それを見ればその人が誰と共に働き、誰の下で指導を受けたかが分かる。いわば、その人の履歴書みたいなものである。そして、それは命終わっても世に残る。その報告とお礼を兼ねて先生を訪ねたいと思ってた矢先に訃報が届きました。

今にして思えば、先生と最後に話したのは私が研修医時代に最初に受け持った小児外科の難病症例の相談でした。滋賀医大では手に負えないから、京都府立で診て頂けないかという相談だったのですが、ただこの症例、元はと言えば京都府立を乳児の時に主治医の治療方針に納得がいかず自主退院をした過去があり、そのためか当時の教授は再度の受け入れにはNGを出したのでした。私の最初の小児外科症例、それを縁としてお声を聞いたのを最期に、先生とは二度と話すことはできなくなりました。その数年後、私は草津総合病院へ赴任となり、実はそこでこの症例に再会し、不思議な縁を感じた次第です。先生、ご安心ください。何度か生死を彷徨った彼は少し小柄ですが、元気に過ごしています。

この15年間は私は先生から卒業し、自分で考え、自分を鼓舞し、自分の選択を信じて前に前に進んでまいりました。その過程で先生の良い噂、悪い噂を聞くにつけ、本当の先生を理解出来るのは私だけだと思っていましたが、最期の苦しい時、無念の時、一番弟子の私はそばに居ませんでした。それが心残りでなりません。今私は自分のクリニックを開くことが叶い、念願の小児外科手術も続けております。先生に習ったことを礎として今ある私の技術を患者さんに日々提供しております。困った時、悩んだ時は、今後もお力添えをくださるよう、よろしくお願い申し上げるとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。

お礼を申し上げるのが大変遅くなり申し訳ありませんでした。

草々


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