古典落語の一つ、井戸の茶碗の噺(はなし)を聞いてみた。
年頃の娘と二人暮らしの浪人が生活に困り仏像を売ることにした。その仲買人は屑屋で物の価値が分からないが、分からないままに200文で買い、それを若い武士が300文で買った。この武士、真面目な性格で汚れを落とそうと仏像を磨いていたところ、中から50両の小判が出て来た。ところがこの武士、買ったのは仏像で中の50両は買ってないと。元はといえばその浪人が生活に困って出された仏像に入っていたもので、きっと先祖からの蓄えに違いないから、先の仲買人にその50両は浪人に返して来てほしいと頼む。ところが浪人曰く、手放したものはそちらのものだと言って拒否。浪人と武士の間を右往左往するのを見かねた大家が浪人20両、武士20両、苦労した仲買人に10両で分けたらどうかと提案。ところが浪人、この20両も拒否したので、困った仲買人は、20両と交換に何でもいいから差し出してほしいと提案したところ、父の形見の汚れた茶碗を出した。この話に感心したのは御殿様、この武士と茶碗の目通りを許す。そこで茶碗を見てびっくり、これは「井戸の茶碗」という世に二つとない名器で、300両で買い取ることにした。その後、また例の仲買人が呼ばれ、300両の半分の150両を浪人に返してほしいと提案するが、そう簡単にはいかない。そこで、もし可能であれば年頃の娘を武士に嫁がせ、その支度金として150両ちょうだいするのはどうかということに話は進んでいった。これを快諾することになった武士に仲買人が一言、その娘さんは今は粗末ななりをしていますが、一生懸命磨けばきっと見違えるようになるであろうと。しかし武士は返す、「いやもう磨くのはよそう、また小判が出てくると困るから」と。
私は落語はよくわからないが、この話はなぜか興味を惹かれた。それは、正直者が得をするという単純なものではなく、金銭の得は所詮目先の利益であって、本当の徳は損得を超えたところにある気がするからである。
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