「蜘蛛の糸」の真意
- Shinichi Shimadera

- 6月10日
- 読了時間: 3分
ある日、お釈迦さまは極楽の蓮池のほとりを散歩していた。はるか下には地獄がああり、犍陀多(かんだた)という男が血の池でもがいているのが見える。
犍陀多は生前、殺人や放火など、多くの凶悪な罪を犯した大泥棒であった。しかしそんな彼でも一度だけ良いことをしていた。道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやったのだ。
そのことを思い出したお釈迦さまは彼を地獄から救い出してやろうと考え、地獄に向かって蜘蛛の糸を垂らした。
血の池で溺れていた犍陀多が顔を上げると、一筋の銀色の糸がするすると垂れてきた。これで地獄から抜け出せると思った彼は、その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命に上へ上へとのぼった。
地獄と極楽との間にはとてつもない距離があるため、のぼることに疲れた犍陀多は糸の途中にぶらさがって休憩していた。しかし下を見ると、まっ暗な血の池から這い上がり蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいてくる。このままでは重みに耐えきれずに蜘蛛の糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。
すると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がいる部分でぷつりと切れてしまい、彼は罪人たちといっしょに暗闇へと、まっさかさまに落ちていった。
この一部始終を上から見ていたお釈迦さまは、悲しそうな顔をして蓮池を立ち去った。
これはかの有名な芥川龍之介の作品「蜘蛛の糸」のあらすじである。これは実話に基づいた例え話と言われるが、どの部分が実話でどの部分が例え話かは分からない。
俗にこの作品は人間のエゴを表しているというが、私はそうは思わない。犍陀多は眼の前に垂れてきた蜘蛛の糸を地獄を抜ける糸口とは思ったものの、自分より下に何百人、何千人がぶら下がっているのを見た瞬間に、「この糸は切れる」と思ってしまったのだろう。その「蜘蛛の糸=切れる」という自分の信と、お釈迦様のこの糸なら全員救えるという信と、どちらを信じるのかを突きつけられているのだと思います。そこにはきっと作者も「蜘蛛の糸」を信じて救われた身なのだろうと思う。
人間は自分の経験に基づいた知恵で物事を判断する。それに照らし合わせると「蜘蛛の糸=何千人=重い=切れる」となるのでしょうが、そこが人間の愚かさなんだろう。こんな小さい地球で、高々50年や100年の人生経験だけで、蜘蛛の糸が切れると言い切れるのか。いや物理的には正答かもしれない。でもそれではこの手立てで大丈夫とおっしゃったお釈迦様の言葉を信じることは難しいでしょう。古い信を捨て、この手立ては本物かも知れないという信、お釈迦様の言うことなら信じてみようという信、それをもって初めて次の世界が待っているのだと思う。
人生の中で、富士山の頂上を頭上に目指して登っている途中は瓦礫だらけ、でも山頂に登って頂上を眼下に見下ろせば周囲が見渡せて、きっと次に目指す先、お浄土の場所も明確に見えてくるのではないだろうか。大事なのはその山に一緒に登ろうと誘ってくれた人に感謝して、ついて行くことがまずは肝心なのだろうと思う。

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